マーク・トウェイン 「不思議な少年」

作者について。

マーク・トウェイン新興国アメリカの明るい楽天主義を代表する作家として、普通理解されてきた。また一面、主として初期の作品群によってではあるが、民話精神を再生させたユーモア作家としての評価もあった。それはそれでいずれも正しいのである。だが、晩年の彼―主として1890年以降であるが―は、奇怪なほどまでに暗い人間不信、ペシミズムに彩られることになる。ここに訳出した「不思議な少年」は、その彼の最後の作品、したがって、ペシミズム作品の代表作品の一つということである。(あとがき=訳者 / 中野好夫

  16世紀のオーストリアのある村に住む3人の少年、ニコラウス、セピ、テオドール(わたし)の前に天使サタンが現れる。サタンによって発せられるトウェインの人間不信、(キリスト教)文明批判。

「いかにも君たち人間という卑しい連中のやりそうなことなんだな。嘘ばかりついて、ありもしな道徳なんてものをふりかざしたがる。そして、実際はほんとうに道徳をわきまえている、人間以上の動物に対して、道徳知らずだなどとけなしつけてるんだな。第一、獣はけっして残忍なことなどしやしない。残忍なことをやるのは、良心なんてものを持っている人間だけなんだ。...良心といや、一応は善悪を区別する働きだなんてことになっていてさ、しかも、人間にはそれを選ぶ自由があるなんてことまで言いやがるんだが、いったい、それがなんになっていると思う?たしかにいつでも選んじゃいるよね。だが、十中の九までは悪のほうを選んでいるだけじゃないか。悪なんてあるのが、そもそもおかしいんだよ。良心なんてものさえなければ、悪など存在するはずがない。ところがだよ、君、この人間てやつは、あまりにも頭の悪いわからずやだもんでね、この良心なんだものがあるおかげで、下劣も下劣、あらゆる生物の最下等にまで堕落しきっているってわけさ。そして、その良心てやつこそ、もっとも恥ずべきお荷物だということにさえ、とんと気がつかないんだな。...」

 

「とにかく、たいした進歩だよね。たった五、六千年間に五つも六つもの高度文明が起こってだよ、それらが栄えて世界を驚倒させたかと思うと、たちまちまた衰えて消えていった。だが、現在のこの文明以外には、まだ大量殺人のうまい方法を発明したというのは、一つとしてなかったわけだよね。もちろん人類最大の野心というものは人間を殺すことであり、現に人間の歴史はまず殺人をもってはじまってるわけだし―それぞれみんな懸命の努力はしてきたさ。だけど、その意味で誇るに足る勝利を記録したのは、キリスト教文明たった一つってことさね。もう二、三世紀もすれば、もっとも有能な殺し屋というのは、キリスト教徒だけってことになるんじゃないかな。そうなれば、異教徒たちはみんなキリスト教徒に弟子入りすることになるよ、きっと―それも宗教を教わるためじゃなくて、人殺しの機械をもらうためにね。トルコ人もシナ人も、宣教師や改宗者を殺すために、そうした兵器を買いこむことになるよ、きっと」

  最終章でこれまでの話からテーマが変わっていく。

「ぼくが君に見せてあげたもの、あれはみんな本当なんだ。神もかければ、宇宙もない。人類もなければ、この地上の生活もない。天国もない。地獄もない。みんな夢―それも奇怪きわまる馬鹿げた夢ばかりなんだ。存在するのは君ひとりだけ 。しかも、その君というのが、ただ一片の思惟、そして、これまた根なし草のようなはかない思惟、空しい永遠の中をただひとり英豪にさまよい歩く流浪の思惟にすぎないんだよ」

  サタンを通して語られるトウェインの人間への不信。ただ、テオドール(わたし)から語られる言葉も同時に本物であろう。サタンの思想に陶酔しながらも、それに抵抗しようとする意欲があった。

「サタンもまた結局は天使にしかすぎない以上、なんにもよくははあわかっていないのだ。つまり、善と悪との区別がわからないのだ。わたしはそれを知っていた。」

 

「相変わらず彼はけろりとしたものであった。苦痛も悲しみも感じていないらしい。それらがどんなものであるか、本当の意味ではてんでわかっていないのだった。わかっているとすれば、ただの理論的―つまり理屈の上だけの知識なのだろうか、もちろん、そんなものは問題にもならぬ。」

 トウェインがペシミズムだけではない、死ぬ直前までそれに抗おうとする作者の意志がうかがえる作品。